木喰上人

木喰上人(もくじきしょうにん)の生涯

  • 享和3年(1718)山梨県丸畑の農家伊藤六兵衛の次男として生まれる。
  • 14歳で江戸に出奔。様々な職業を経て、22歳で仏門に入る。
  • 45歳で木喰戒をうけ、五穀(米・麦・粟・稗・黍)を断ち、煮炊きしたものを断って驚異的な93歳まで生きる。寺も家も持たず、生涯を旅にすごした無名異端の遊行僧。
  • 56歳から37年間は、「日本廻国」「千体仏像造」「衆生済度」の悲願をかかげ、超人的活動を行った。
  • この間64歳~68歳、85歳~88歳と2回に渡り越佐をおとずれ、この地に全国最多の彫仏を遺す。特に2回目の来越の際は、宗教心、芸境ともに完成期にあり数々の「微笑仏」(みしょうふつ)の秀作を今日に伝える。
  • 大正末期、民俗学者・民芸研究家柳宗悦氏によって広く世に出され「円空・木喰」と並び称されて今日の高い評価を得るようになる。
  • 93歳で波乱万丈の生涯を閉じるが、入寂の地は不明。

木喰上人(もくじきしょうにん)と安住寺

木喰上人は、55歳のとき、日本廻国と千体仏の造像の大願を発してから30年、北は蝦夷から南は九州果てまで行脚しつづけた。そして享和2年(1802)85歳にして郷里甲斐丸畑村に帰り、大願成就供養のため四国堂を建立し自叙伝ともいうべき「四国堂心願鏡」を納めた。

その後、秋風とともに第2回目の越後巡錫に旅立ち三国峠を越えて越後に入り、長岡の上前島の青柳家などを訪ね歩き、翌3年、小粟山観音堂で三十三観音等を刻み、明けて文化元年小国太郎丸の真福寺で仁王尊を刻み、梨木観音を残し、次いで長岡市白鳥室生寺でまた三十三観音を刻んだ。上人の所行やその特異な微笑をたたえた上人の噂は、八石山をこえて安住寺まで届いてきた。

この郷の信仰の中心として、衆生教化を願う時の安住寺住職は、この不思議な魅力で民衆に語りかける木喰仏をそのために役立てたいと思い、上人にぜひ来山するようにとの案内を便りを届けた。

木喰上人にとっても厳しさを増した幕府の旅僧・修験者・乞食に対する取締令をかいくぐって、本願の千体仏作像をやりとげるためには、自分を信頼しかくまってくれる寺院や保護者は必要であった。こうした宿縁糸に結ばれて87歳の上人が、白鳥の室生寺を出て三島郡の大釜谷をまわってはるばると訪れたのは、文化元年(1804)9月8日のことであった。村の観音堂の境内にあったという銀杏の大木をもらいうけ、上人は刻んだという。

上人は作像の場を他人からのぞかれたり、うかがわれたりするのをひどく嫌い、多くは人の寝静まった夜半に経文を誦しながら、時には線香のかすかな明かりをたよりに、懸命にノミを振るい続けたといい、時には二体、三体刻むこともあった。10月9日、悲母三十三観音が見事に完成すると、上人はまた風の如くに安住寺を後にし、鯖石川にそって安田鳥越で十三尊像を刻んでおられる。

悲母三十三観音のうち特に丹念にノミがほどこされた馬頭観音がある。これはこの地に牛馬をあつかう博労衆が多く、この人たちの願いを入れたものだろう。
その後、この馬頭観音を除く三十二体は、心ない仏師の手が加えられたのはまことに残念なことである。

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