歴史

開山 北条普広寺三世曇芳文誉大和尚 大永3年(1523)示寂
開基 石曽根帯刀公

安住職寺縁起によると、永享年間(1429~)に、当時無力な室町幕府の治下にあって、打ち続く土一揆や徳政一揆の騒乱をのがれてきた主従6人が、小清水川の東の山、苧がせ池のほとりに居を構えた。
もともとこの地は、石の多いやせ地で、石曽根(いしそね)と呼ばれたところであったが、主従は力を合せて山野を切り開き田畑とし、やがて西方の峰に城形を築き石曽根城となし、自らも石曽根帯刀(たてわき)と名乗ったという。

それから70年ほどは、石曽根城内遠見に御殿を造り、茶の会を催すほど繁栄を続けたが、文亀3年(1503)から永正6年にかけての7年ほどは、全国に大流行した疫病が、この石曽根一族をも襲い、無残にも一族残らず病死、わずかに次男ひとりが残ったという。

この次男は病鬼のこもる石曽根城をすて、髪を剃り僧となり名も文誉と改め、この西の入に引きこもり亡き一族の菩提を弔うため庵を結び、不動尊を安置して念仏三昧の生活を送った。しだいに住民たちも不動堂の庵主さまと尊敬するようになった。
この庵主さまが、開山曇芳文誉和尚であり、この不動堂が不動山安住寺のはじまりだと云う。

その後、火災に遭い本堂を焼失した。
現代の本堂は、嘉永4年(1851) 第十七世鷲山峻霊大和尚により建立され、130余年豪雪や湿気に絶えて来たが、いたみもひどくなり、昭和55年(1980)本堂の大改修を行い、その際、寺宝の木喰仏悲母三十三観音像は、現在の間に移し礼拝堂とした。また、本堂の屋根は昭和58年に銅瓦式に葺替えた。

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